ビルマ


ビルマ*1軍事独裁政権に対する大規模なデモが続いています。
発端となったのは石油価格の大幅な引き上げとそれに伴う物価の急激な上昇で、
これに抗議するデモが暴力的に解散させられたことで一気に緊張が高まったようです。
10日ほど前には人々の崇敬の的である僧侶たちが沈黙を破ってデモを牽引するに至り、
ついに軍政の廃止と民主化を要求する大きな運動へと膨れ上がりました。
報道によれば、26日には治安当局による組織的な武力行使が始まり、
多くのデモ参加者が逮捕された他、死傷者も出るという最悪の事態となりました。
今後の運動の行方と国際社会の動向が注目されます。


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今から9年ほど前、ぼくは一人でビルマを旅しました。
見たことのないものを見るだけでなく、想像も付かないような世界に飛び込んでみたい。
そんなナイーブな想いから、ぼくはバックパックを背負ってかの国へと出かけました。
ビザの申請費や入国税など諸々の名目で支払わなければならなかった金が、
軍政を支える資金源となっていることを知ったのはかなり後になってからのこと。
人々を苦しめる独裁者たちに気付かない内に貢献してしまったのだと考えると、
世間知らずで浅はかだった自分がとても恥ずかしくなります。


結果、旅の目的は果たされました。
いろいろな意味で想像も付かない世界を目の当たりにしたからです。
言葉をなくして立ちすくむほど荘厳で美しいものを見ました。
どんな言葉や行いでも感謝しきれないほど優しく慈しみ深い人々に出会いました
正視することも目を背けることもできないほど恐ろしく悲惨なものを目にしました。
怒りで震えるほど理不尽で筆舌に尽くしがたい不正に見舞われました。
ぼくにとっては世界の見え方が根本的に変わるほどの旅でした。


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ビルマでは1962年にクーデターで軍政が樹立、
その後今日まで「ビルマ社会主義」を標榜する一党独裁体制が敷かれています。
反政府運動少数民族による独立運動は徹底的な弾圧を受けており、
これらの活動に携わったり、関係を疑われた人々は簡単に逮捕され、
恐怖政治の象徴インセイン刑務所などで劣悪な環境の中拘留されます。
死亡したり廃人になったりするほどの苛烈な拷問が行なわれているといいますが、
情報が統制されているため、実態は今も闇の中です。


1988年には圧政に怒る人々が各地で反政府デモとストライキを繰り広げ、
民主化への渇望は押し戻すことができないほどの大きなうねりとなりました。
ところがその年の8月8日、運動は恐るべき暴力で文字通り粉砕されます。
首都ラングーン*2で大規模ながらも平和的に行なわれていたデモに軍隊が発砲し、
数千の人々が殺害され、多数の負傷者と逮捕者が出たのです。
これが転機となって民主化運動は鎮圧され、取り締りは一段と強化されました。


1990年には形ばかりの総選挙が行なわれ、
自宅軟禁中のアウン・サン・スー・チー氏の率いる全国民主連盟が圧勝しました。
しかし軍政は当然のようにこれを無視して政権の座に居座り続け、
スー・チー氏は数回の解放の末、2003年以降は現在まで自宅に軟禁されています。


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旅の序盤、ラングーンで若い僧侶K . . . と知り合いになりました。
彼は日本人で自分より何歳か年下のぼくを大変かわいがってくれ、
毎日忙しい日課の合間を縫って市内を方々案内してくれました。
その中には外国人を連れて行ってはいけないだろう場所もあり、
そういう時には小声で政治状況を説明してくれたりもしました。


彼の友人と車でスー・チー氏の家のそばを通りかかった時のこと、
もしかしたら警官に止められて検問を受けるかもしれないが、
おまえは何も言わず、何も分からないふりをしろと囁かれました。
幸い何事も起こらず無事に通り過ぎることができましたが、
彼らの緊張した顔がこの国の現状をありありと物語っていました。


ビルマ第二の都市マンダレーでは、
K . . . が紹介してくれたホテルの従業員M . . . に大変お世話になりました。
ある日、一緒に見晴らしのよいマンダレーヒルを登って景色を眺めていると、
彼がある一点をじっと見つめていることに気付きました。
視線の先には、政治犯などが収容されるという巨大な刑務所が。
「あそこに入れられたら人生は終わりだ」だとつぶやいたM . . . の表情は固く、
その眼差しは今でも忘れることができません。


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今回の動乱の行方を左右するのは国際社会の動きだといわれています。
国連総会が開催されているこの時期にデモが始まったことを考えると、
ビルマの人々も世界の目を十分意識しているのだろうと思います。
実際、国連安保理は緊急会合を開いて軍政の対応に懸念を示しました。
また、以前から軍政に圧力をかけてきたアメリカやEUは制裁を強めるでしょうし、
加盟国ビルマの人権問題に悩むASEANもなんらかの行動を取る可能性があります。
中国、インド、ロシア、日本といった地域大国の働きかけも期待されますが、
権益や内政事情にからむ様々な思惑から、情勢が極端に悪化しない限り、
残念ながら影響力を行使することがあるかどうか微妙なところです。


ともあれ、今ビルマでは人々が立ち上がって声を上げ始め、
そのために催涙ガスを浴びせられ、警棒で殴られ、銃で撃たれています。
死傷者が出たことで、緊迫の度合いは格段に高まっていることでしょう。
軍政が態度を軟化させ、対話による妥協点の模索が始まるのか。
当局の実力行使が人々を萎縮させ、運動を失速させていくのか。
対立がますます尖鋭化し、より激しい暴力を呼ぶことになるのか。
知識も情報もないぼくにはまったく先が見えません。


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ビルマで出会ったたくさんの人々と大切な友人たち、
とりわけ運動の中心にいるであろうラングーンの僧侶K . . . の無事を心より祈ります。




*1:日本では「ミャンマー(Myanmar)」という国名を使うのが一般的ですが、英語圏では「ビルマBurma)」という名称が広く使われています。どちらも語源は同じなのですが、前者が文語的な言い方であるのに対し、後者は口語的であるといわれています。1989年までは正式な名称として「ビルマ」が用いられていましたが、この年に現在の軍事独裁政権が国名と英名を「ミャンマー」に改めました。この変更は国連でも承認されましたが、軍政に反対する立場の人々はこれを認めず、現在でも「ビルマ」という名称を使っています。このことをかんがみて、ぼく自身は普段からこの国を「ビルマ」と呼んでいます。(参考:Should it be Burma or Myanmar?(BBC News)

*2:a.k.a.ヤンゴン